メタセコイアはその並木が美しいため、日本だけでなく海外でも大変人気があり、かつて韓流ドラマ「冬のソナタ」でも様々な場面で登場し、注目を集めました。
メタセコイアは、かつては絶滅種と考えられていて、化石が発見された後、生きた木が発見されたことから、「生きている化石」と呼ばれています。
ここでは、メタセコイアの特徴やなぜ生きた化石と呼ばれるのかについて記載しています。
メタセコセイアの特徴
メタセコイアは、ヒノキ科メタセコイア属の針葉樹で、中国が原産地です。
和名はアケボノスギといいます。
樹高は20~35m、直径は1.5 mほどに生長し、枝には細長い羽のような葉が左右対称に隙間なくつきます。
樹皮は赤褐色で、縦に裂けるのが特徴です。オスとメスの区別がない雌雄同株で、2~3月頃に薄い黄色の花が咲きます。
針葉樹の大部分は紅葉しませんが、メタセコイアは針葉樹でありながら、秋になると黄色から赤みがかった濃いレンガ色に紅葉して落葉します。
温暖な地域になるほど生長速度は速く、早ければ発芽から5年で樹高5 mにもなります。
大きくなるにつれて生長速度は落ちますが、樹齢200年から300年で樹高50 mに達するとみられています。
生命力が強く、病気にもかかりにくく、太い枝が切れても傷口を数年で塞ぐ修復力をもつことが知られています。
現在では、メタセコイアは街路、学校の校庭、公園などで見られる身近な落葉針葉樹ですが、1946年までは絶滅種と考えられていました。
メタセコイアはなぜ生きた化石と呼ばれるのか?
日本の植物学者がメタセコイアを発見
大阪市立大学教授を務めていた植物学者の三木茂博士は、岐阜県、和歌山県などの約1100万~100万年前の粘土層の中から採取したセコイアの化石を研究していました。
セコイアの化石の中に葉の付き方や1つの軸につく球果と呼ばれる果実の数が異なる等、通常のセコイアとは異なる新種の樹木があることに気づき、これをメタセコイア(メタは「後の」という意味)と命名しました。
当時はこの木はもはや地球上には存在せず、100万年前に絶滅したとして1941年に論文の発表が行われました。
中国で生きたメタセコイア発見
論文の発表から5年後の1946年に中国の四川省で中国人学者により生きたメタセコイアの木が発見され、世界の人々を驚かせました。
このように、メタセコイアはかつては化石しかなく絶滅したとみられていましたが、生きたメタセコイアの木が発見されたことから、「生きた化石」と呼ばれるようになりました。
現地を調査した米国の古生物学者が種子を採集し、その後、米国で苗木が殖やされ、1950年に100本の苗木が日本へ贈られました。
日本のメタセコイアのルーツとなった木
三木博士はメタセコイア保存会を設立し、米国から贈られた苗木の1本を親木として、挿し木の手法により、苗木を殖やして北は北海道から南は九州までの全国各地の希望者に配布しました。
このことにより、メタセコイアは現在のように全国各地に広がり、身近な樹木となったのです。
日本のメタセコイアのルーツとなった木は現在、大阪府交野市にある大阪公立大学附属植物園内にあります。
この植物園は1950年に開園され、約25ヘクタール(甲子園球場6個分)の広大な敷地に約6700種、約3万4000本の植物が集まっています。
一般の方でも入場可能です。
入園料 大人350円 中学生以下 無料
詳細は大阪公立大学理学部附属植物園のホームページで確認してください。
苗木100本のうち1本は皇居にも
米国からのメタセコイアの苗木100本のうちの1本は皇居にも贈られました。
植物学者でもあった昭和天皇は贈られたメタセコイアを大切にされていたそうです。
昭和天皇は昭和62年の歌会始で次のような歌を詠まれました。
「わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり」
「あけぼのすぎ」はメタセコイアの和名で、戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長を遂げた日本を、あけぼのすぎに例えて詠われたといわれています。
メタセコイア並木の名所は?
日本の景色を彩るメタセコイアの並木や森は全国に20箇所以上ありますが、その中でも最も有名なのは滋賀県高島市のマキノピックランドからマキノ高原へ続く2.4kmにわたるメタセコイア並木です。
ここは新・日本街路樹百景にも選ばれています。
道の両側には約500本のメタセコイアが植えられていて、例年、11月下旬頃から美しく色づきます。
紅葉だけでなく、季節ごとに表情を変える美しい景観は多くの人々を魅了しています。
まとめ
以上のように、現在全国にあるメタセコイアの木は、元は1本の苗木から広がったということは、あまり知られていません。
もし三木博士によるメタセコイアの発見がなかったなら、現在のような美しいメタセコイアの並木道を見られなかったかもしれませんね。