マチュピチュは日本の裏側の南米の南部に位置する、インカ帝国の首都であったクスコから80kmほど下った山中にある遺跡で、世界遺産に指定されています。
インカ帝国は南米大陸のペルー、ボリビア、エクアドルを中心にかつて栄えた帝国で、1200年頃に成立、1533年まで続きました。
そのインカ帝国の9代の皇帝パチャクティが1450年ごろからマチュピチュの建設を始めたといわれています。
マチュピチュでは1533年にスペイン人により征服されるまでの約90年間、人々の生活が続いていました。
ここでは、インカ帝国、そして、その遺跡であるマチュピチュが滅びた理由についてご紹介します。
マチュピチュはなぜ作られたのか?
マチュピチュが作られた目的には諸説あり、要塞や神殿だったという説もありますが、現在ではインカの人々が太陽に祈りを捧げるための儀式を行う場所だったという説が有力です。
マチュピチュが滅びた理由
マチュピチュが滅びた理由
インカ帝国は1533年にスペインによって征服されました。
直接手を下したのは、スペインの軍人であるフランシスコ・ピサロという人物です。
ピサロはインカ帝国の皇帝アタワルパを捕虜にし、インカ帝国を征服し滅亡させました。
ここに、驚くべき事実があります。それはピサロが率いたのは、わずか168人の小部隊です。その部隊の隊員はその土地には不慣れで、訓練もされていない、ならず者で構成されていました。
一方、インカ帝国は、その当時アメリカ大陸で最も隆盛を誇っていた国で、皇帝のアタワルパはその絶対君主でした。
ピサロは圧倒的に不利な状況下で戦ったわけですが、勝利できたのは疫病の天然痘によるところが大きいと言われています。
その当時、インカ帝国では天然痘が大流行していました。
天然痘のウイルスは感染力が強く、致死率は20~50%と高く、高熱が出て全身に水膨れのような発疹ができ、飛沫感染や接触感染で広まります。
そして、天然痘によりインカ帝国の1000万人だった人口が、130万人にまで激減してしまいました。
皇帝やその一族も天然痘で死亡し、王位をめぐって内紛が起きていました。
もしインカ帝国で天然痘の大流行がなかったら、インカ帝国の内部紛争は起こることはなく、スペインに勝ち目はなかっただろうといわれています。
インカ帝国で天然痘が大流行したのはスペインの戦略?
インカ帝国で天然痘が大流行したのはただの偶然ではないようなのです。
インカ帝国にこの天然痘を持ち込んだのは、スペイン人で、時間をかけて中南米で流行させ、
新大陸を征服するためのスペインの用意周到な戦略だったとの説があります。
スペイン人が連れてきた奴隷の中に、天然痘に感染していた人が混じっていたのです。
スペインがアステカ王国を征服するときも天然痘が流行っていた
スペインはインカ帝国を征服する前に、アステカ王国(現在のメキシコ)も征服していました。
アステカ王国で天然痘は爆発的に流行し、国王や側近らも天然痘で死亡しました。
その結果、アステカ王国の国力が弱体化し、スペインの兵力はわずか数百人であったにも関わらず、結局、アステカ王国は滅亡に追いこまれました。
天然痘はその後、中南米に広がり、先に記載したインカ帝国にも波及しました。その結果、中南米の人口は約10分の1になったと言われています。
ここで、スペイン人に天然痘が感染しなかったのかという疑問が起こりますが、中南米で大流行する以前にスペインでは流行していたため、免疫ができており、感染しても発症しないケースが多かったということです。
スペインによる征服後のマチュピチュ
インカ帝国の遺跡として作られたマチュピチュは、スペインによる征服後、人の住まない都市となってしまったといわれています。
そのため、実際にマチュピチュに人が暮らしたのはわずか90年ほどの間だけだったということになります。
1911年にアメリカ人の歴史家ハイデラ・ビンガムに発見されるまで、マチュピチュは人々の記憶から忘れ去られてしまいました。
まとめ
インカ帝国を征服したのは、スペインですが、疫病である天然痘により、インカ帝国は弱体化して、兵力の上では、圧倒的に不利な状況にあったスペインがインカ帝国を制圧しました。
インカ帝国、そしてその遺跡であるマチュピチュが滅びた本当の理由は、疫病である天然痘により国力が弱体化したためです。